鶴岡旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今まで、サハラ砂漠や氷河など僻地の旅行をしてきたのですが、最近イスラム原理主義の勢力がサハラへ移動し、危険になったため、サハラ砂漠のチャド北部への旅行は只今、待機中です。現地では安全というメールが来るのですが、まだ時期尚早だと考えています。その間、国内の興味があるところを旅行しています。<br />山形の鶴岡にある羽黒三山神社は、予てから来たいと思っていたところですが、なかでもこの五重塔は是非とも見たかったものでした。日頃の行いが悪かったのか、雷雨が激しくなり、ずぶ濡れになりながら、やっと五重塔に辿り着きました。<br />この五重塔は、仏堂ではなく、羽黒神社の末社で、大国主命をお祀りする千憑社というお社です。当初は、仏堂として建てれらましたが、明治の神仏分離で、強制的に「神道」に改宗されたそうです。<br />羽黒山には、曾て仏堂、今社殿という転用が多くあります。参道入り口の随心門は、曾ての仁王門で、阿吽の仁王様は退出して頂いて、新たに神像を安置して、神域への門としたものです。<br />山頂に建つ唐破風、茅葺の合祭殿も曾ては羽黒山の別当、寂光寺の本殿でした。羽黒三山が古くから修験道の行場だったため、このような転用が多く見られるということです。修験場は、日本古来の山岳宗教と仏教、道教が合体して生まれた信仰です。<br />羽黒三山で奉祀されていた大権現も、本地仏が「権りに神として現れた」尊格で、仏が主で神が従という立場になっていたので、儀礼や行法、年中行事は仏教に準じていました。

藤森照信氏が語る羽黒山五重塔

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2013/07/27 - 2013/07/27

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belledune

belleduneさん

今まで、サハラ砂漠や氷河など僻地の旅行をしてきたのですが、最近イスラム原理主義の勢力がサハラへ移動し、危険になったため、サハラ砂漠のチャド北部への旅行は只今、待機中です。現地では安全というメールが来るのですが、まだ時期尚早だと考えています。その間、国内の興味があるところを旅行しています。
山形の鶴岡にある羽黒三山神社は、予てから来たいと思っていたところですが、なかでもこの五重塔は是非とも見たかったものでした。日頃の行いが悪かったのか、雷雨が激しくなり、ずぶ濡れになりながら、やっと五重塔に辿り着きました。
この五重塔は、仏堂ではなく、羽黒神社の末社で、大国主命をお祀りする千憑社というお社です。当初は、仏堂として建てれらましたが、明治の神仏分離で、強制的に「神道」に改宗されたそうです。
羽黒山には、曾て仏堂、今社殿という転用が多くあります。参道入り口の随心門は、曾ての仁王門で、阿吽の仁王様は退出して頂いて、新たに神像を安置して、神域への門としたものです。
山頂に建つ唐破風、茅葺の合祭殿も曾ては羽黒山の別当、寂光寺の本殿でした。羽黒三山が古くから修験道の行場だったため、このような転用が多く見られるということです。修験場は、日本古来の山岳宗教と仏教、道教が合体して生まれた信仰です。
羽黒三山で奉祀されていた大権現も、本地仏が「権りに神として現れた」尊格で、仏が主で神が従という立場になっていたので、儀礼や行法、年中行事は仏教に準じていました。

旅行の満足度
4.5

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  • 祓川(はらいがわ)も、濁流のようでした。昔、三山詣りで人々は必ずこの川で水垢離をとって、三山への登拝に向かったそうです。<br />

    祓川(はらいがわ)も、濁流のようでした。昔、三山詣りで人々は必ずこの川で水垢離をとって、三山への登拝に向かったそうです。

  • 須賀の瀧は、慶応3年(1654)に8キロ先の月山山麓の水呑沢から堰を築いて造った人口の滝です。一般には、随心門から神域と言われていますが、ここより山上と山麓とに呼び分けています。<br />滝の手前には、祓川神社があります。

    須賀の瀧は、慶応3年(1654)に8キロ先の月山山麓の水呑沢から堰を築いて造った人口の滝です。一般には、随心門から神域と言われていますが、ここより山上と山麓とに呼び分けています。
    滝の手前には、祓川神社があります。

  • ご覧の通りの雷雨で、石段を上がったところから五重塔を撮ろうと思っていたのですが、不可能だったので、諦めて五重塔の周りから見ていきます。

    ご覧の通りの雷雨で、石段を上がったところから五重塔を撮ろうと思っていたのですが、不可能だったので、諦めて五重塔の周りから見ていきます。

  • この五重塔は、正和元年(1312)に立柱という説と、応安5年(1372)頃、供養という説がありますが、後者の方が有力だそうです。また平将門の創建と伝えられています。<br />慶長以降の記録は比較的良く残っているそうです。最上義光や藩主酒井家の庇護を受けて、定期的に屋根の葺き替え等の修理が行われてきたことがその記録に寄って、分かっています。現在の塔は、室町前期のものです。

    この五重塔は、正和元年(1312)に立柱という説と、応安5年(1372)頃、供養という説がありますが、後者の方が有力だそうです。また平将門の創建と伝えられています。
    慶長以降の記録は比較的良く残っているそうです。最上義光や藩主酒井家の庇護を受けて、定期的に屋根の葺き替え等の修理が行われてきたことがその記録に寄って、分かっています。現在の塔は、室町前期のものです。

  • 江戸初期に廃寺となった堂塔山龍水寺に属していた塔で、初重の須弥壇には曾て羽黒山の本地仏、聖観音・軍荼利明王・妙見大菩薩の三尊像が安置されていたが、神仏分離の際に、山麓の正善院黄金堂に移されました。

    江戸初期に廃寺となった堂塔山龍水寺に属していた塔で、初重の須弥壇には曾て羽黒山の本地仏、聖観音・軍荼利明王・妙見大菩薩の三尊像が安置されていたが、神仏分離の際に、山麓の正善院黄金堂に移されました。

  • 総高(楚石上端から相輪頂上まで)が96,37尺(29,20m)で、塔身高(礎石上端から露盤下まで)73,10尺(22,15m)、初重柱間16,56尺(5,01m)、五重柱間11,62尺(3,52m)です。三間五層。<br />屋根は柿葺き、相輪長は、23,27尺(7,05m)は、総高の25%弱にあたり、近世の塔に近いものとなっています。慶長の修理の時に相輪が改鋳されているので、創建当時の割合になっているかどうかは不明となっています。

    総高(楚石上端から相輪頂上まで)が96,37尺(29,20m)で、塔身高(礎石上端から露盤下まで)73,10尺(22,15m)、初重柱間16,56尺(5,01m)、五重柱間11,62尺(3,52m)です。三間五層。
    屋根は柿葺き、相輪長は、23,27尺(7,05m)は、総高の25%弱にあたり、近世の塔に近いものとなっています。慶長の修理の時に相輪が改鋳されているので、創建当時の割合になっているかどうかは不明となっています。

  • 初重の四隅にだけ風鐸がついていて、上層部には吊金具だけが残っています。<br />心柱は、初重天井上に建て、初層には須弥壇を設けています。<br />法隆寺の心柱は、堀立柱で、地面に掘った穴に心柱を埋めて建てるというものでした。その後、初層の天井を強化して、その上に心柱を載せるという形式が登場しました。初層から心柱がなくなると、広い空間が出来て、仏像を安置出来るようになりす。江戸時代後期には、心柱を吊り下げる懸垂式の心柱が出現しています。日光東照宮の五重塔は、4層の塔身部から4本の鎖で吊り下げられて、地上の心礎に開けられた穴に心柱から太柄(ダボ)が差し込まれ、振れ止めの役割を果たしています。<br /> 明治の神仏分離の際、塔は出羽神社の所有となり、須弥壇に安置してあった仏像(聖観音、妙見大菩薩、軍荼利明王)は山麓の黄金堂に移し、大国主命をお祀りして、今日に至っています。

    初重の四隅にだけ風鐸がついていて、上層部には吊金具だけが残っています。
    心柱は、初重天井上に建て、初層には須弥壇を設けています。
    法隆寺の心柱は、堀立柱で、地面に掘った穴に心柱を埋めて建てるというものでした。その後、初層の天井を強化して、その上に心柱を載せるという形式が登場しました。初層から心柱がなくなると、広い空間が出来て、仏像を安置出来るようになりす。江戸時代後期には、心柱を吊り下げる懸垂式の心柱が出現しています。日光東照宮の五重塔は、4層の塔身部から4本の鎖で吊り下げられて、地上の心礎に開けられた穴に心柱から太柄(ダボ)が差し込まれ、振れ止めの役割を果たしています。
     明治の神仏分離の際、塔は出羽神社の所有となり、須弥壇に安置してあった仏像(聖観音、妙見大菩薩、軍荼利明王)は山麓の黄金堂に移し、大国主命をお祀りして、今日に至っています。

  • 慶長13年(1608)に山形藩主・最上義光が行った修理は大規模で、「一ノ坂ヨリ塔ノ五重迄梯ヲ渡」し心柱を上げ下げしたとの記録が残っています。<br />

    慶長13年(1608)に山形藩主・最上義光が行った修理は大規模で、「一ノ坂ヨリ塔ノ五重迄梯ヲ渡」し心柱を上げ下げしたとの記録が残っています。

  • 現在の4つの風鐸は、嘉永の修理の時に、取り付けられたもので、「慶長十三年の銘のある風鈴を一個、羽黒町手向の芳賀七右衛門氏が所蔵されていましたが、近年盗難に遭い、行方が分からなくなってしまったのは、残念なことです。

    現在の4つの風鐸は、嘉永の修理の時に、取り付けられたもので、「慶長十三年の銘のある風鈴を一個、羽黒町手向の芳賀七右衛門氏が所蔵されていましたが、近年盗難に遭い、行方が分からなくなってしまったのは、残念なことです。

  • 多雨積雪地帯にあり、杉木立に囲まれて湿度が高いという、杮葺屋根には不利な条件が揃っているため、古くから屋根の定期的な修理のため、羽黒山の社領配分の中に、修理料の項目が設けられています。近代以降、大正4年に半解体修理、昭和30年に屋根葺き替え修理が行われました。

    多雨積雪地帯にあり、杉木立に囲まれて湿度が高いという、杮葺屋根には不利な条件が揃っているため、古くから屋根の定期的な修理のため、羽黒山の社領配分の中に、修理料の項目が設けられています。近代以降、大正4年に半解体修理、昭和30年に屋根葺き替え修理が行われました。

  • 積雪は2m前後になり、毎年1月下旬から2月上旬頃、雪下ろしの作業が行われています。出羽三山神社の職員数人が命綱を付けて、各重の屋根に積もった雪を掻き落す様子が年中行事となっているそうです。<br />是非行ってみたいと思っています。

    積雪は2m前後になり、毎年1月下旬から2月上旬頃、雪下ろしの作業が行われています。出羽三山神社の職員数人が命綱を付けて、各重の屋根に積もった雪を掻き落す様子が年中行事となっているそうです。
    是非行ってみたいと思っています。

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